ちょっと心理学的な話として・・・。

時にメールをして、返信に、
オッ!そう来るか!?
という返信に驚くことがある。

こちらとしては、関西人よろしく、間接的に、婉曲的に怒っていることを伝えているのであるが、自分を立てたような、お手伝いできなくてすみません、的な、あるいは、自分が貢献している感満載な、今まで私が、迷惑していなかったと思っているの!?というような・・・。

たぶん、言われていることはわかっているのだろうけれど、どうしても頭が下げられないのだろう。
プライドは劣等感の裏返し。

謝ればすべてが壊れるとでも思っているのだろうか・・・?

いつでも謝っておけばいい、という話ではない。

でも、自分を立てすぎると、当然に周りから人はいなくなるだろうし、温かい思いをいただくこともできない。

私は、とりあえずは人を信じることから始める。
教室に来る人はそうである。

そして、教室に入れるときには、信じるけれど、それでも考え抜いた末、これは自分ばかりのことを考えていて、人のことを考えていないな、と思ったときには、たぶん、関係をやめるだろう。

本当の理由をご本人に伝えるか伝えないかは別である。
その人との関係性による。

実はここ数か月くらい前から、別れが続いている。
いや、辛い別れというのではなくて、むしろ、いなくなってくれて、スッキリというような別れである。
生徒さんではない。
立派な大人の人である。

自分が仕事をするうえで、協力していただくメンバーの顔触れを変えてみただけである。

たぶん、うまく行かなくなる時というのは、どちらかが成長したり、あるいは後退したりして、合わなくなる時だ。
相手の表現に、?というものが混じり出す。

なぜ、そこで、そういうちょっと人を貶める表現をするのだろう?という表現がときどき出てくる。
何?これ?

どこか一生懸命に人のあらを探しているような・・・。

そして、ある日気づく。
ああ、この人、人を低めようとする表現してる・・・。
そして、いくばくかの不快感がわかる。
それまで微かに感じていたものが、実態をもち出す感じ。

その時はお別れの時だ。
いや、現実的に別れるかどうかはわからない。
でも、物理的にというより、心理的に離れるだろう。

数か月前から、仲間内で、しんどいね・・・、と言っていたことが、やはり実態としてあったのだと気づく。
今まで本当の姿を知らずに騙されていた、とかいうのではなくて、単純に、ステージが変わってきた、ということだと思う。

でも、わかってよかったね!と自分に語り掛けている。
別にショックとかいうのではなくて・・・。

自分の劣等感としっかり向き合わないで、人と付き合うとき、どうしたって、身構えるし、居丈高になる。
私は大きな声を出す人、威張る人、自慢をする人のことを冷静に見えているときがある。
ああ、自信がないんだな、と。
そして怖いんだな、と。

相手と付き合い続けるかどうかは、関係性や、あるいは、相手を思う気持ちの度合いや、いろんな要素が絡むことになるのだと思う。

ついでに、英語にすると同じ語も出てくるけれど、
プライドと誇りは、似ているけれど、ちょっと違うと思う。

来し方を思い、学んできたこと、経験などから誇りをもち、誇り高く生きていくことは素敵なことだと思う。
品のない振る舞いをするまい、というような・・・。
けれど、プライドというと、どこかで、劣等感の裏返しのような感じがして、私は、そういう時相手にしない。
ああ、言ってる・・・。
それしかないんだな、と思ってしまう。

それに、仮に自分が、そういう風に思われても構わない。
勝手に仕事柄やその他もろもろのことから、プライドの高い人、とか言われても、そういうこと言っとけば?と思っている。

誇りをもつべき人が誇りをもたれていても、それをプライドが高いとは思わない。
ただ、一つの価値基準をほかの自分の部分にも適用した時にはプライドが高い、ということになるような気がする。

第一、本当に中身が伴っている人って、そこだけを言うようなことをしないだろうから・・・。
とはかつて、何かの折にお話を伺ったドクターの言である。

先日、生徒から、
先生みたいに、そこまでフラットな方って(この表現から、そうそう親しい関係ではないかもしれない感じはあるかな?)、なかなかいませんよね?
と言われた。
ふーん、そういうように見えているのね!とは思った。

でも、これでも、国語科教育、教育、ということに掛けては、誇りも矜持もあると思うんだけど・・・。