曲解

この写真を見て、ふと、昨日から読み始めた、ハイデッガーの『存在と時間』のことを思い、ああ、そう言えば「時間」という概念については小さいころから関心があったなあ、と思った。

それから、連想的に、なぜか、自分の思いを曲解されて、ショックだった「とき」のことを思い出した。
転校した先でのことだった。

私は小学校2年の3学期に大阪市内から大阪府の中でも京都寄りの茨木市に引っ越した。
同じ府内でも雰囲気は全然違った。

特に5年生の先生は、私の育った環境とは全く違う価値観をおもちのようで、性悪説を採用されているような方だった。
もともとの気持ちに絶対邪悪なものがあるだろう・・・。
そんな純粋な気持ちがあるはずがない、とでも思ってらっしゃるように。
校長先生のお子さんで、どうも、ご自身はあまりできないと思っていらっしゃるようだった。
その先生と、学級委員に選ばれながら、どうも仲良くできず、話しかけにも行けない自分に自己嫌悪を起こしていた。
私ときたら、けっこうストレートに行動するので、一つ一つの行動の裏に何かある、と思われているようで、びくびくしながら生活していた。
何が怖いって、曲解され、それを言葉で明確に違う定義をされるのが嫌だったのである。
かと言って、わざわざ悪いこともできないし・・・。
それから、先生はわずかな悪いことを見つけようと必死だったようだし、ちょっとでも何かしたら、執拗に叱られた。
今思えば、先生がご自分が受け入れられずに育たれたのだろう。
私ときたら、小さいころ、祖父母と同居していた頃は、まだ結婚していなかった叔父や叔母なども含めて、内孫の中では初めての女の子で、それはそれは可愛がってもらったから、男性が怖い、と思うこともなかった。
私が高校に合格した時など、父方も母方も、伯父や叔母たちがそれはそれは喜んでくれて、なんだかおもしろいお祝いが届いて、それにセンスがあると言っては、友人に羨ましがられたりしていた。
なんだかおばあちゃんもおばちゃんも、どこでだか、面白いものを見つけてくるのである。

その後もそういう経験はあった。
ご家庭持ちの先輩の先生方が、休日を取れるよう、休日に出勤して、仕事をカバーしているつもりが、わずかな手当がほしいがために出ていると思われたこともあったし(あれは結構キツかった。)、親元を離れてからは、何か行動する、その行動の裏にあることを違う意味に取られて、不快な思いをしたことも多かった。

今の教室の卒業生が、まだ生徒だったころ、言ってくれた。

先生は曲解をしないから・・・、と。
そんなことを言ってくれて、と嬉しかった。
立場的に、生徒さんを信じはするけれど、信じてばかりでも行けない仕事でもあるので、その言葉は嬉しかった。

最近になって、自分の人生の中で、結構しんどい思いをした人たちは、きっとご自分が救われていらっしゃらなかったのだろうなあ、と思うようになってきている。