生きづらさという言葉からの発見

生きづらさという言葉をよく聞くようになりました。
身近な人からも、あることを本で読んで知ってから、ずいぶん生きづらさから解放された、ということを聞きました。
私自身は生きづらさ、という認識を持ったことがないように思います。
生きやすかったかと言われるとそうでもないのかもしれないのですが、私自身は、そのことを単なる周りの人との間における課題であり、自分を成長させる課題であると思ってきたので、そうそう生きづらさ、という表現にはならなかったのだと思います。

最近は、親ガチャ、毒親、アダルトチルドレン、自己肯定感の強め方などあらゆる言葉で生きやすくするための発見があれこれなされています。
私は常々、この言葉の定義が生きていきやすくも作用するけれど、なんでも定義することによって、違う方向に一人歩きしてはいけないなあ、とも思ってきました。
定義は便利だし、その内容をうまく伝えるのにはこれほどうまくいく方法はありません。というかそれしかないというものです。
ただ、定義はその先を導くものであってほしくて、それで終わってしまうのは良くないと思っています。

かつて関わった人で、ああ、私とは考え方が違うのだなあ、と思った人がおられました。
ある機関であることに当てはまると診断されたとかで、その人は、そうだと診断されて、自分の状態を診断されることによって、ずいぶん楽になったのだそうです。
ただ、その人と関わって来た立場としては、その定義があるから、自分は特別、と思い込んで、そこに甘えてしまってはいけないな、と思ったのです。
私もよく、繊細だと言われてきましたし、幾分その傾向があることは認めています。
でも、自分の人生の中で、いろいろな人の指摘を受け、これはどういうことだろう?と真面目に考えることによって、自分の戸惑いだけでなく、周りの人にとってどういう風に見えるか?ということを考えてきました。
その過程は決して楽ではありませんが、生きるということはそういうことであると思います。

ある人との関係で、私はずいぶん長い間、ときになんでだろう?と思うことが多かったのですが、最近、その原因がわかり始めました。
その人と相談していて、私がかつて○○なことがあって、○○に感じた、というようなことを話したら、それは確かにそうだ、ということになり、ご自分のズレ方に気づかれたようだったのです。

その人は、小さいころから生きづらさを抱えていたのだそうです。
その点、私は周りと少し違うと感じても、それを生きづらさ、というところに集約しないところがあります。
人間が生きていくのはそういうことだと思っている節があります。
生きづらかろうとそうでなかろうと、その人その人に、ある種の課題があるだろうと思っているからです。
だから、人と比べたりはしません。
それよりも自分に与えられた課題を乗り越えることに必死だからです。

でも、その生きづらさ、と感じられるものはどこからきて、それをどうしたら乗り越えられるか?ということに集中すれば、おのずと方策は出てくると思うのです。
そして、生きづらさについて勉強してみると、その原因となるものはいろいろあるのだなあ、と思い始めました。
結構勉強もし、大学時代から途切れることなく心理学的なアプローチはしてきたものの、今更ながら勉強することが多いな、と思っています。

私はどうも毒親、という言葉が苦手です。
件の卒業生に、
私、娘に、パパとママを見ていたら、大学になんか行きたいとは思わない、と言われたんだけど、毒親じゃなかったかしら?
と訊ねたら、頭のいい彼女は、ニヤリと笑って、
そういうことを親に言えてるだけで、先生は毒親ではありませんよ。毒親にそんなこと言えないから。
と言われました。確かに毒親診断をしてみたら、当たらないようではありましたが、そんなもの、当事者から見た私はわかりませんから、もしかしたら毒親に当たらないとも限りません。
ただ、毒親、という言葉は苦手です。
それをうまくいってくださっているお医者様の言に出会いました。
親が発達障害の場合、確かに毒親に見えるけれど、それはちょっと違う、と。
だから、その態様ではあるものの、その中身というのは、それぞれであって、すべてが毒親という言葉に集約できるわけだはないと思うのです。
まあ、随分大雑把な掴み方だなあ、という感じです。

人が死んだ、ということに対しての罪状がいろいろあるように、例えば、殺人しよう、という故意があれば殺人、この人を刺してやろう、という思いはあったけれど、殺そうとも思っていなかった場合、刺して死んでしまった場合は傷害致死、全く人に危害を加える気がなかったのに、つまりは何をしようという故意もなかった場合は、過失致死になるように、同じ状態でも、その中身は全く違う、ということはあり得ます。

それと同じではありませんが、人間関係で困っている場合、その内容も原因も、あれこれあると思うのです。
まだ世間慣れしていない、という場合は経験があれこれ教えてくれるでしょうし、一定の誰かとしんどい場合は、その人の中に何か原因があるかもしれないし、ただ相性が悪いだけかもしれない。はたまた、心理学的に投影の法則がはたらいていて、自分が我慢していることをしていてムカつくのかもしれません。
それぞれの悩み、生きづらさはどこから来るものなのか、わかる人がいなければわからないし、それは自分自身の努力でわかる場合もあるし、誰かの力を借りてわかる場合も、そのうちの一法として本を読んでもいいと思います。
私も先程、ある書物をダウンロードしました。

最初は、教科指導を効率的に進めたいがために学び始めたようなものでしたが、生きることそのものへの関心に少しずつ移行してきています。
生きやすくなれば当然勉強も捗るし、その原動力となる目標もはっきりしてきます。