どうすることもできない感情

ほぼ十数年前、私は、ある人の前で泣いていた。

もうすぐ死んでいくことがわかっている人について、「ああ、私は、このままご自分のしたことの罪を、伝えきれないまま、見送ることになるんだあ、と無力感に苛まれています。」と。
別に、何か特別の信仰をもっているわけではないのだけれど、徳、だとか不徳、だとかいう言葉を耳にしていた関係上、私は、何か自分が、人様にいいことをしたら、自分に、というより、わが子にいいことがあるだろうし、人様に嫌なことをしてしまったら、それはそのまま、不徳として、自分にならまだいいけれど、わが子に返っていく、と思って、何かを畏れる気持ちをもっていたから、ああ、この方はわからないままなのかなあ、と思ったのである。

教育の世界で生きてきた。
教師も人間。
でも、自分の生徒になった瞬間から、好き嫌いを越えて、自分の仕事の対象となる。
家族なんて、究極の人間関係であり、まるで、いったん法律関係に入ったように(事実、法律関係なわけだけれど。)、それは、愛する努力をする対象になると思っている。要するに、すべて仕事。
人はいつも岐路に立っていると思う。
しんどい人を嫌ってしまうか、愛する努力をするか。
恋愛関係なんて、ほんの入り口。
結婚してからの現実に対して、どれだけパートナーを愛する努力をするか、ということが大事だと思う。
授かった子供など、私は、何かからの預かりものとして、自分のものという意識すらなかったかもしれない。
なんとか、まっすぐに、どんなことが起こっても、乗り越えられる人間としての強さをもたせるのが、親の使命だと思ってきた。
全くのきれいごとに思われるかもしれない。
けれど、家族も、そうして仕事の人間関係も、私にとっては、本当に仕事であったと思う。
どれもこれも、大変な責任を負う仕事。
人間関係を構築していく仕事。
子どもたちに、温かい家庭であるよう、一生懸命家事したり、おやつを作ったり、温かい言葉を掛けたり、ここぞ、というときには、厳しく叱ったり。
愛情を掛けるのは、対象が、いかにも可愛い様子をしているから、とか、いわゆる可愛げがあるから、ではないと思う。

でも、その努力が、あまりにも報われなかったり、自分が、その努力よりも、ほかに注力したほうが、役に立ったり、自分らしく生きていけると思ったら、方向転換するのも、大事であるし、また、相手に、伝えても伝えても、わからないときは、もう、ここまで、とあきらめる、と言うか、引き下がることも大切かもしれない。

最近、自分があまりにも一生懸命に努力してきた人との関係が、ああ、ここまでだなあ、と思えることがあった。
一生懸命にやってきたから、何の悔いもないし、私は、時折、その人間関係から、卒業するように、それ以上、精一杯努力することを止める。

人間、誰しも(実は、私は、あまり経験がないのであるが。その対象には何度かなってきた。)、どうしても受け入れられない人間が存在するのかもしれないなあ、と思う。
何かをばっさり切ってしまうとか、これからの人間関係に、何か起こすとかいうようなことではない。
ただただ、心の中で、静かに、その人との関係に、幕を下ろしただけである。
これ以上努力をするのはやめよう。
私の大切な人に、やっと私の今までの苦悩が分かってもらえたのだから、もう、これでいいや、という程度のことである。
それはあまりにも相手の問題であって。私から思えば、そんな感情、もうとっくに乗り越えていなければならないのではないか?と思われる。
少なくとも、私よりは長く生きてきた人である。
教育者としての仕事が、私を修練してくれた。
だから、よほど、相手のために、むしろ感情をぶつけたほうがいい、と思ったとき以外は、それほど乗り越えるほど、苦手な人はいない。
だから、可愛そうだとは思うけれど、もういいや、なのである。笑