心理的な壁―新しい相談室の準備

新しい相談室の準備を着々と進めている。
それと共に、いくらか自分の生活も新しくなる一面もあるので、いろいろと買いそろえている面もある。

相談室に来られる人のために、いろいろ揃えていたり、自分が仕事をしやすいように、いろいろ揃えているのだけれど、そのときに、ある心理的ブロックがあることに気付いた。
私は、生徒でも、相談室に来られる方にしても、できるだけいいものを使っていただきたい面がある。
どちらかと言うと、気に入ったものを、長く大切に使っていきたい方である。
そんなとき、どこからか、「そんなにお金を使って!」と怒られているような気がして、なんでだろう?と思っていた。
どこからか、そんな声がするのである。
無駄なものは、なんにも買っていない。仮に少々無駄なものを買ったとしても、そんなに自分を責めなくても・・・、みたいに。
お金をきちんと貯めることがいいという価値観が支配的になってしまっている。
そうじゃない。
生徒さんや相談室に来る方のために、居心地よくいていただくために、そのために一生懸命働いているのに。
おかしいなあ、と思っていた。
この葛藤は何だろう?

夜になって、ある方の相談を聴いていた。
職場での人間関係。
近々、その職場をお辞めになるというお話。
どう考えても、その職場はおかしい。
私がその場にいても、きっと疲れるだろうなあ、と思う。
お辞めになるのは正解。
でも、お話の途中で、「あなたにも良くないところがあったんじゃないですか?」と聞きたくなる自分がいた。
正直、この言葉は禁句である。
被害者に、「あなたにも・・・。」とお聞きするのと同様、傷口に塩を塗り込むようなものである。
なのに、私は、その言葉を出したい衝動に駆られた。

ふっと気付いた。
もしかしたら、○○さん、私に、「あなたにも悪いところあったんじゃないですか?」と聞いてほしかったんじゃないですか?ご自分を責めてませんか?と訊いてみたら、「そうなんです!!」

辞めることも決まっていて、そこの人が明らかにおかしい、と思いながら、なぜ、こんなに、私にお話しされるのか・・・?と考えてみて、気付いたのである。
この事態が、その方のせいでないのに、ご自分でも頭で納得されているのに、心がついて行ってない。
それは、どこかでご自分を責めているからでしょう?
お顔が晴れやかになった。
お話始めは、本当に疲れておられたのに、帰られる頃には、すっかり明るく生き生きとした表情になっていた。

私への恩恵は、その方の気持ちが軽くなられたことだけではない。
先日、胃薬をいただきに行って(これは、間違いなく神経性胃炎だと思うのだけれど、絶対そのようには言ってもらえない。)、ドクターとちょっとお話したとき、その、胃の不調の原因であると思われる事柄を話したときに、「なんで、○○さん、そんなこと、あなたに言いはるんやろなー。」「あなたでなくて、○○さんが子どもなんや。」と言われたとき、どこかで、自分が悪いー例えば、そんな言葉まともに受けるほうがおかしい、流せよ。などと言ってもらえれば、どこかで納得しただろう自分がいたのである。
強い使命感を必要とする仕事に就いた同級生たちは、激務の中で、使命を果たそうとして、こんなちっちゃなことに心を煩わせたりしないだろうな、などと考え、自分を責めていた。
けど、人間である。みんな、誰だって、感情的には限界もある。
時折、冷静に考えて、絶対自分がおかしいわけではないことに、心がついて行かず、お前が悪い、と言われるのを期待している自分と出会う。
ああ、これだなあ、と気づく。

なんで、お互いに、自分を責めちゃうんでしょうね?
と話しながら(もう、このころにはニッコリしていたのであるが。)、親が厳しかったからかなあ・・・、とおっしゃる言葉に、ああ、と私も、父と母の躾を思い出した。
倹約家で、まじめな両親。真ん中っ子で、どこかで、二人とも、この子に任せておいたら安心。少々のことがあってもへこたれない、と信じてくれていた二人の若かりし頃を思い出した。
最近、母に、私だって、キャパってもんがあるねんけど、と言っている自分がいる。
ちょっとは配慮してよ。

そう言えるようになったな、と思っているし、自分の気持ちを話せるようになりつつある自分と向き合っているときに、いただいたご相談であった。
事理が至るーそんな言葉の意味を噛みしめたお話だった。
明日、きっと私たちは、今日よりちょっと気持ちが軽くなった一日を過ごすことになるだろうな。