時折自分に相談する私💛

実は、昨日、教育相談を受けた。

一生懸命聴いてしまう私。
まるで、かつての自分を見ているような話題だった。
こういう表現は、あまり好きではないけれど、この年になると(本当に年を重ねることは生きていきやすくなることだと思う。)本もそれなりに読んではいるのだろうけれど、何より、それなりに一通りの経験をしてきていることになる。
だから、あまり、引き出しがたくさんあるから・・・、みたいな表現は好きではないけれど、人についても、いろいろな人がいることも、ある程度は理解しているし、誰かと、同じ意見でないときや、これ以上、今はお付き合いできないなあ、と思ったときに、一瞬、その場を離れたり、一回降りて、時が解決するのを待つ術も心得ている。

では、自分が、まだ遭遇したことのない経験をしたとき、あるいは、なんとなく想像はできるけど、ちょっと戸惑うような経験をして、どうしようかなあ、と思ったとき、それはそれなりに、私なりに、誰かに相談するのであるが、どうしてもピン!と来ないときは、最終手段として、自分を相手にして、誰かに相談されているような気分で、自分の話を聴いてみるようにしている。

ふん、ふん。

ときどき相槌を打つ。
それは大変でしたねえ・・・。
でも、今、元気そうに見えますねえ・・・。
あなた(つまりは、クライアント役の私。)を見ていると、悩んでいるようには見えなくて、元気そうですねえ・・・。
だから、誰もあなたが、何かについて、考えているようには見えなくて、そういう発言をされるわけですね・・・。

などと。

心の中でだから、誰も笑わないけれど、これを実演したら、私はさぞかし変な人であろう・・・。考えただけでも可笑しい。笑

で、たいてい、私は、自分に、おお、お前は、今、悩んでいるふりをしたいのじゃな、と思うわけである。
少なくとも、周りから見て、考えているように見えないのも分かってきたりするのである。
ときおり、母の無神経な発言(お母さん、ごめんなさい。)に思えることも、ああ、心配してないねんな、などと、わかってくるのである。まあ、心配されるような状況には見えないだろうし・・・。でもまあ、事柄ではなくて、気持ちに寄り添ってほしいな、なんて思ったりする。

まあ、やってみなければわからないこともあるわけで。岐路に立っているのは、悩んでいることにはならない。どちらにしようか、考えているだけである。
経験上、私は、選択には、正しい、正しくないは、あまり関係ないような気がしている。
選択したその先で、大変であろうが、のんびりするのであろうが、結局は、その先で、同じように一生懸命に取り組む、ということしかないし、それしかできないのであるから。

日常生活は、岐路の連続だと思う。
簡単な、お味噌汁の具材を何にするのかだって、豆腐にするのか、人参にするのか、夕飯のおかずを魚をメインにするか、お肉をメインにするか、自由な時間を、何に使うのか。

今日、私は、ああ、ちっちゃくまとまった考えになっているのだな、と気づいた。
私のクライアントとしての私に、そう言った。
いつもの、使命感や、これがあるから、というほどの自分の芯にある信念から、むしろ、小さな、と言うより、むしろ、女性的な、繊細な感情に、ちょっぴり浸かっていたのだと思う。それはそれでいいとして。だって、私は女性だから・・・。

ただ、教師をしているときに、私は、教師であって、女性も男性も意識していない。
教師をしている。
それで困ったことも、あるわけでもない。

それが、仕事に関わる場面で、あれっ、えらい女性してる・・・、と思ったのである。別にそもそも男性的に仕事をしたいと思ってもいない。
ただ、仕事をしたいと思っているだけである。

数年前、仕事の席で、「でも、女性でしょ?」と訊かれて、「ええ。」と答えながら、確認するように、「女性でしょ?」と訊かれるのが不思議だった。私の心の中では、「教師です。」が答えだった。

職務遂行するために、男女が同じ、と言っても違いは、歴然とあるので、そんなことわかっているし、認めているし、受け入れてもいる。身体的機能も、能力も、どちらにも優れた面があるので、自分の持った特性を最大限に活かして仕事をするだけであろう。

というわけで、私は、私をクライアントにしての、相談を受け、それなりに、答えを出し、クライアント私にホッとしてもらって、終了したのである・・・。

私は、明日、家事を思い切りして、買い物をして来ようと思っている・・・。笑
楽しみ・・・。