おいしいものの力。

京セラの創業者であり、名誉会長であった稲盛和夫さんが亡くなられた。
たぶん、この日を一生忘れることはないだろう。
息子の誕生日だからである。
私はこの日がとても好きである。

稲盛さんが亡くなられたら、どうしよう・・・。
自分はどうなってしまうのだろうか?
とよく、思ったものだったけれど、意外にこの日が来るという覚悟はできていたようで、ショックでしばらくどうにかなる、ということもなかった。老衰、というのも、人生を生ききった経営者らしくて、いつも己を律しようと努めていらした姿と重なって、とても納得している。

私が、ある人が倒れたと聞いて、ものすごくショックを受けるのではないか・・・?と思って、その方の奥様が、私を可愛がってくださっていた上司を通して、お電話でお知らせくださったことがあった。
一命をとりとめた、ということをお聞きして、ホッとした。
娘を産んだ直後だったから、必死だったこともあった。
その前には、とってもかわいがってくださっていた先輩の先生がお亡くなりになっていた。

ショックを受ける、というのは、亡くなったこと、というより、その時の亡くなり方、あるいは、倒れた原因についてのことだった。
私が尊敬していた先輩が、とんでもない倒れ方をしたら、私の信じているものが、崩れてしまいはしないか?と心配されたのだ。

話は戻る。
稲盛さんにお目に掛かったことがあったわけでもない。
講演会に行きそびれたことはある。(笑)
大学時代は、京都に通っていて、京セラ、と訊くと、どこかベンチャー企業のイメージがあり(まさにベンチャー企業だったし。)、鋭く、でもまだそうそう安定したイメージでもなかった。博覧会で、セラミックという言葉を聞いてはいた。

ただ、なぜにこれほど、稲盛さん・・・、と思ってしまうかというと、それは、私が、最初に手にした経営についての本が、稲盛さんの本だったからである。それまでビジネス書のコーナーとは無縁だった私が、小さな塾とはいえ経営者になり、何か読まなくてはいけないだろう・・・、と思って買ったのが、『生き方』で、その内容に心酔した私は、『京セラフィロソフィ』を自分のバイブルにしてきた。悩んだら、そこに答えが書いてある、とばかりに、縋りつくように、眠る前に読んできた。
もっと勉強しなければ、と思って出かけたセミナーや、ほかの本からも学びはあるけれど、やはり気持ちが行き詰ったときは、稲盛さんに帰る。

その中で、昭和かもしれないけれど、コンパの大切さを言っておられる。
それは私も納得する。

誰かスタッフが悩んでいるとき、それは時には指導が終わった後のラーメン屋さんかもしれないし、時には知り合いのオーナーさんを頼ってのお食事会になることもあるし、そう言えば、カニの季節にカニを食べに行ったこともある。
そういう、お食事を共にすることの大事さが私にはよくわかる。

ちょっと感情的にしんどくなったとき、その人のモチベーションが低くなったとき、私はちょっと食事に誘ってみる。
本当なら家に呼んで、ちょっと、というのもいいけど、私の仕事の場合は、ちょっと違う気もする。

昔、父が、ある休日、娘の私の感情が波だったとき、わざわざみんなで食べられるようなものを昼食にしようとしてくれたことがあった。
それでも、私の気持ちは、治まらなくて、父が頭を抱えていたことを思い出す。
なんでや?どうしたんや?

私は、父と一番ぶつかった子であり、でも、一番本音も言えて、時には八つ当たりもできたのだと、今になって思う。
母は、八つ当たりできるタイプではない(このあたり、美人はそういう目には遭わないのか?と思うあたりは私の僻みだろうか?)ということが、最近本当によくわかる。
その分、私には言えたのではないか?と思い始めている。
なぜなら、重要な場面で、一番頼りにしてくれて、本音を言ってくれていたような気が、最近してきたからである。

私は私で、女性として、しあわせな方向に、と思っていたらしい父の思いとは違う方向に行こうとしていたので(父の名言は、高校の教師をしていた私が、先輩と友人の結婚式にはしごして、実家に帰ったときに、「お前はどうなってるんや?人の結婚式ばっかり出て。そんな仕事(そんな仕事!)いつまでも続けられる仕事と違うやろ?と言われた言葉である。)、どうも高校に進学する頃から、ズレてき出した~のような気がしている。父は、高校のレベルなんて、一つでも二つでも下がったところで・・・、と言っていたし、就職活動していたときも、「別にアルバイトでもしてたらええやないか・・・。」と言っていたらしい。

だからか、違う高校に行っていたらなあ・・・、と何度も思ったことがある。
けれど、形はどうあれ、父が末期がんだとわかったとき、ちょっと高校の同級生を頼ったときは、ああ、役に立てたかもしれない、と思えた。

あまりどこかに偏りたくない私には、ちょっと合わないところだった。

でも、勉強は好きだし、音楽も自分の生活の中に残っている。

とりあえず、父が、あの日、みんなで楽しくご飯が食べたかったのだろう。それしか父には思い浮かばなかったのだろうけれど、なんとかこじれている長女との心をつなげたかったのだろうと思う。

もっともっと心に距離があると思っていた父だけれど、がんがわかって、すぐに富山から駆け付けた私に掛けてくれた言葉には、それまでのこじれた感情はどこにもなくて、とんでもなく素直なストレートな言葉だった。

もしかしたら、一番ぶつかった分、心はつながっていたのかなあ、と思う。
だから、母のために何かをするとき、私はお父さんから預かった、お父さんの大事な大事なお母さんだから、と思ってしまう。

一緒においしいものを食べる、って大事なことだと思う。
まだお子さんが手元にいるはずの、目の前におられる生徒さんの親御さんにも、まだ一緒にいて、同じご飯を食べられる喜びを感じていただきたいものだと思う。

そんな素敵な時間が過ごせる日々が永遠に続くばかりではなくて、それぞれに自立する時期が来るものなのだから。

まとまりのない話だけれど、大学に入ったばかりの頃、地方から来ている友人の話をしていたら、母が、大学から遠くにやるなんて、子どもも親もえらいなあ、と思う、と言っていた。

その大学で、コンパに出席する機会が何度もあった。
先輩にお酒を注ぎに行く機会。
あの時がなかったら、たいして先輩方の姿に触れることはなくて、そうそうその人となりを知ることもなかっただろうと思う。
すき焼きを前にして、ほとんど食べられない鍋はほったらかしにして、ビールばかりが飲まれていたっけ。

なんだか全速力で駆け抜けていたような時代だったなあ。(笑)
生徒の一人が言う。
いろいろな経験してる、って。
たしかにねえ。