しあわせのかたち・・・。

どうも私は、あまり人と同じことにしあわせを感じないし、誰かに何かを言われたり、自分の思っている評価と違うことを言われたとしても、あまり堪えないタイプの人間なのかもしれないなあ・・・、と思っている。

今朝聞いていたPod Castで先生もおっしゃっていたのだけれど、あまのじゃくと言うか、人と違うことに目を向けるタイプらしく、この先生は私とは価値観が違うように思えながら、どこか似ているところもおありなのは自分でもわかっていて、ある種の同族嫌悪的なところもあるのもわかっているので、変に納得してしまった面があった。

私も、人と違うところに目をつけてしまうようなところがある。
それに、人がどうのこうの言うことにかまっていられないし、結局自分の判断が正しかったなあ・・・、と後で思わされることも多い。

そのことを実感したのは、高校受験であった。
ふるさと大阪の当時の高校受験は、勉強だけで来ても門前払い。体育や美術、音楽、技術家庭ができなければ、入ることができなかった。
実力では足りていても、内申が危なかった。美術一教科が足を引っ張っていた。

別にそれなら、違うところに行っても私は良かったけれど、担任の先生が、学年団全員が反対するのを押し切る形で、母校を受験させてくださった。私の知らないところでは大騒ぎになっていたらしい。それも学年全体で。ほかのクラスの子までも知っていて、私だけが知らん顔していた。
ああ、受験しなければならなくなってしまったなあ・・・、というくらいだった。
何を聞いても、その時に自分のしなければならないこと以外は全然響かないようなところが私にはある。
恥の精神は相当にあるが、しなければならないと思ったことの前には、そのことすらどこかに行ってしまう。

同級生の相当仲良くしていた友達からは、担任の先生が、美術の先生に掴みかかった、という話まで聞いた。
全然知らない友達からも、学年で大騒ぎになっていた、と阪急電車でたまたま隣に座ったときに言われた。

なんでもう1ランク下げたら安全なのに、絶対に合格しない受験をするのか?お前は女子高嫌いではなかったか?という先生方の声が聞こえるようだった。
たぶん、担任の先生は相当に先生方を敵に回すようなことをされていたのだろう。
当の本人は状況は読めず、今まで親切だった先生方からは、ある種の冷たい視線を投げかけられた。(笑)

女子が定員割れになった。
もう安心、と担任の先生に言われた。
直前妹が水疱瘡に掛かり、ちょうど潜伏期間の直後に受験があった。
受験できるかどうかが危なくなってしまった。
仕方ない。京都の女子高に行くか・・・。
こういうところがのんびりしている。
縁がなければ縁がないし・・・。

しかし、よほど縁があったのだろう。
合格してしまい、合格しなければしないで済んだであろう苦労をたくさんさせてもらった(いやみではなく。)。
世界は広がり、価値観も広がった。
けれど、どうにも合わない面もあった。
その合わない面を追いかけるように生きてきた。

先日、ある人に、先生は、当時の自分を救いたくて、その仕事してるんじゃないの?
とその方も進学校出身で、その中をよくご存じだからかおっしゃった。しかも、その方も、進学校というものの本質を、どこか私と似た感じで捉えていらしたようだった。

そう、当時の戸惑い。
価値観の違い。でも勉強は嫌いではなかった。
いったい、この自分の気持ちとの齟齬は何?
みんながいいところだという場所に対する違和感は何だったのだろうか?
そのことを追いかけて生きてきたような気がする。

今も、どこかで、大変ですね、と言われることが、私にとっては全然大変ではなくて、むしろ生きる張り合いになっていて、みんなにいいですね・・・、と言われることが全然いいことではないこともある。
人間、みんなそんなものかもしれない。
ただ、朝イチ、もう帰ってきたの?と連絡をくれた友人は、どこかで私の価値観を知ってくれている気がする。

誰にとっても、生きる信念というのがあってもいいと思う。
先日、永平寺に法要のため参詣した折、どこか自分の中で、厳しい修行をしておられるお若い雲水さんが羨ましく思っているのに気づいていた。
私は厳しい状況に自分を置くことが嫌いではない。
だから、受験勉強などは大好きである。
もし、若さを羨ましく思うとしたら、おそらくは、今から受験をして、そしてそのことが誰かの役に立つ可能性があることであるだろう。
今からだって、自分のためになら受験はできる。
でも、受験をし、仮に合格しても、今より誰かのためになるという可能性は低い。
ならばこのまま今の仕事を充実させて、この道でいろんな人と出会っていく方がいい。

ただ、言える。
みんなにとってのしあわせや、羨ましく思えることが、誰にでも当てはまるものではない。

だから、価値観の違う話で断定されるとき、そんな話が長くなると、疲れてしまう。
断定が苦手かな。
そして、自分も断定しないようにしている気がする。

特に、○○やんか~、とか、○○やろ?と訊かれると、どうしていいかわからなくなる。
それはその人それぞれかもしれないし。
平気に流せる話もあるにはあるけども。

あんなに反対されて、それも美術一教科で、受験を阻まれて、でも合格して、それでそれはそれでものすごく勉強になって、周りはいろんなこと言ったけど、その価値観とも違って、結局は自分の価値観で生きるしかないわけで。
みんながいいね、と言ってくれることが、私にとっては、消しゴムで消したいくらいの過去であったこともあり、みんなにとっていいことなんてどこにもないわけで。
言えば必ず自慢としか受け取られないことが、その人本人にとってはそうでもないことなんて山ほどあるだろう。
逆も真なり、である。

そのあたりのことにはいつも気をつけて、その人にとって、生きて行きやすい言葉を掛けることができればいいな、と思っている。