しあわせは比較するものだろうか?

人から見て、しあわせそうだとか、そうでなさそうだ、とかいうのほどあてにならないものはないと思う。
しあわせというのは、主観的なもので、客観的なものではないからだ。

確か、ヴィクトール・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』の中に書かれていたものだったと思う。
凄惨なナチス=ドイツのユダヤ人収容所の写真が、戦後公表されたとき、当の収容所にいた、フランクル博士は、周りが、酷いですねー、というのに対して、そうだろうか・・・?もしかしたら、彼らは、体調が悪いと言われ、2日の休息を与えられて、至福の時間を過ごしているかもしれない、と言うのである。

誰からも、そんな不幸は耐えられない、と言われるような状況を、ご本人は、もしかしたら勇敢に好転するよう努めているのかもしれない。
苦難の時を、楽しかった、と思い出す人は多い。
それを、ほかの人の目から見て、ということを意識し出したら、本当のしあわせではなくなる。

社会で生きているので、人の目も大事である。
でも、基本的には自分なので。

自分がしあわせだと思うかどうかだと思う。