しんどいときに、私の顔を思い出してくれるというありがたさ。

よく、しんどくなると、友人から、あるいは、違う方面から、私の顔を見たがってくれたり、声を聴きたくなったりしてくれる人がいるのはなぜだろう?

今、闘病中の方も、私とのやり取りや、私の顔を見ることを楽しみにしてくださっているし、かつては、新婚の悩みを相談してくれた友人もいたりした。

まゆみちゃんにしか話されへんねん、とよく言われた。
ほかの人に言ったら、それこそ、陰口叩かれそうなことでも、なかなか話せないようなことでも、相談してくれた。

なぜか?

私は、人が聞かれて都合が悪いことは絶対に人に話さないから。

たぶん、よくしゃべるほうだと思われているだろうことは想像がつく。

あまりよくない意味で、多弁な方、と表現されたこともある。
まあ、大阪から来たというレッテルでもあったのだろう。

実は、あまりしゃべりたい方ではないかもしれない。
それが証拠に、ここ数日は、あまりしゃべりたくないのである。

それは、ちょっと私が堪えているから。
今まで認めずに来たかったことw、人生の何回目かの挫折(えらく大きな話になってしまってるけど。)で、私はとうとう認めようかなあ、と思っていることがあるのである。

傷ついているし、痛い話でもある。
けど、もう、仕方ないなあ。

そんな感じで、あまりやる気の出なかった今日、私は、ある人の大変さに寄り添っているうちに、自分のことなんかどうでもよくなってきているのに気づいていた。

教師、っていい仕事だと思う。
自分が、どんなにしんどくても(限界はあるが、それでも、自分を必要とする人のために、さっさと立ち直らなければならない。プライベートなんて、どっか行く。)、人のことをしているうちに癒される。
必要とされる、ということで、必死になってしまっているうちに、なんとかしようとするうちに、自分のことなど忘れている。

そう、人のために働いていると、自分のことは忘れる。
私が先日まで、あれこれ考えていたのは、ある意味余裕があったのである。
気持ち的に。

人のことで精一杯になったら、自分のことは忘れてしまう。

それから、私は結構しゃべっているようでいて、あまりしゃべらないように見えて、結構個人情報を平気でほかの人に話す人よりも、核心部分は絶対に話さない。絶対に秘めておかなければならないことは話さない。

だから、結構相談される。
あなたらしい話、というエピソードに、絶対に話さないでくれる、という信頼を持ってくれながら。

それと、自分自身の働きについてのコスパはよく考える。
しがらみの中で、ああでもないこうでもない、と考えている暇に、もしかしたら、ほかのたくさんの人のために役立つかもしれないのに、1人の人が、自分のことで躍起になって、それはある意味自己中心的になっていることに付き合っている時間が惜しいときもある。

自分が、どこにエネルギーを注げば、役に立てるか?
これは私の一生の最大課題かもしれない。