ときに厄介な私。

私は、周りの人からも表現されるように、わざわざ嫌な思いをさせるような表現を故意にはしません。
かつて、誰かの自慢は聴いておいてあげればよくない・・・?
と私が訊いたある人に、
嫌・・・、と言われて、なぜ?と聞いて、
誰かにいい思いさせたくないから。
という言葉を聞いて唖然としたことがあります。
誰かがいい気分でいることって、素敵なことじゃないかしらん?と思ったのです。

自分が、誰かに意地悪する気もなければ、誰かが自分よりいい思いをするのが嫌だ・・・、などという気持ちがないので、ときに厄介なことが起こります。
誰かが機嫌が悪いために発した言葉も、八つ当たりも、そして、何かの感情をぶつけられても、わからないことがあり、最近ではかなりマシになりましたが、それが自分への指摘、みたいなものであるとき、私はまともに受け止めて、勝手に努力してしまうことがありました。
努力すればできるようになるのが当然なので、それは、表現した人が意地悪で、あるいは、重箱の隅をつつくように弱点を衝いて来ている場合、相手にとっては、逆の結果になるので、本当にもう、面倒くさい話になるわけです。
当の私は、何の悪気もないし・・・。
どこかで、そういう気持ちで言ってるのかな?と思いはしても、どこから来るのか、私は、私ができていないから、言ってるのだろう・・・、と頭で解釈して、それで、まともに努力してみたりするのです。
それが、自分の専門分野であるとかなら、まだ判断もできますが、そうそう専門ではない分野ー例えば若いころで言うなら、家事などは、まともにできていないのだ・・・、と思っていました。
それから、高岡では○○・・・、というのも効きます。
だって、よそから来た私には、判断材料がなかったのですから。
意外に違わないじゃない!?と気付くまで、その言葉はとても有効でした。

負けん気は強い方だと思います。
でも、たぶん、その対象は、できていない自分です。
ほかのだれかではないような気がします。

でも、最近は随分大人になって、できていないこと、あるいは誰かが言った言葉を信じてばかりではなくなってきました。
それぞれに都合もあれば、生きてきた経緯もあって、感情的になることもあります。
ときに誰かにとって、それが相当に理不尽なことであっても。
でも、それに惑わされなければ、別に、自分を鍛えるのに使ってもいいと思います。
できることが増えれば、それはそれで楽しいし、人の役にも立ちます。
もし、そのことで崩れる人間関係なら、そもそも継続が無理だということにもなるでしょう。
人間関係は相対的なものであるから。
絶対的にどちらが正しいということもないと思います。

昨年、自分ができないことを、人ができることのせいにされた若い人の表現がありました。
ああ、この人とはここまでだな、と思いました。

でも、もう、そう思う自分を否定もしなければ、その言葉に合わせる必要性も感じてはいません。
自分の都合に合わせるために人を攻撃する方がよっぽどおかしい。
でも、それを咎めもしません。
そういう在り方の責任を取っていくのはご自分ですから、私は私。自分で責任を取らなければならないことは自分。
でも、人を否定して自分を高めようとする人はそれなりに自分で自分の立ち位置を決めて行けばいい。
私もいつか、誰かを否定した表現をするかもしれないし、しているかもしれません。
それだって、その人にはその人の経緯があるはずですから、そっと距離を取ることにしています。