ときに孤独をしっかりと感じるとき

本来も何も、人は孤独なものだと思う。
その孤独に向き合った人だけが人の心の温かさを真に知ることになるのだと思う。

若いころは、自分がそうそう努力しなくても同じような価値観で、同じような感性の人がどこかにいるはずだ、と思い、どこか周りが間違っていて、自分が真に正しいものを知っているかのような気持ちでいた。
そのために高校を選んで進学した、と言っても過言ではなかった。

長じるにつれ、そんな人どこにもいないのだということに気づきだした。
そうなったらそうなったで対立軸的に自分の方がおかしいと思い出すわけで、どこまで行っても白か黒。
本当に合わせる気がなかったのではないか?とまで思わされる有様だった。

札幌時代も、いったい周りに何が起こっているのかもわからず戸惑っていた。
それが、突然、下の子が幼稚園に入り、そこでの人間関係が楽しく、自分を活かせる場所があるように思えた。
高校勤務時代も、どこか周りと違っているようで、可愛がってもらってるじゃん・・・、と言われながらも、どこか自分の気持ちにしっくりきてはいなかった。
それがなぜか、息子の性質によるものなのか?
息子はなかなかに渉外をやるタイプであった。
社交的と言われ続けてきた私に似たのか?人が好きで、自分から人の中に入っていくのである。
一方、娘の方は、せっかく慣れた幼稚園を、弟の出産のために大阪に連れていかれた娘は人生初の社会でのデビューをしそこなった感が否めない。
本当に申し訳なかったな、と思っている。
それに比して、弟の方は、どこに行っても人間関係をまず作ってくれていた。
○○くん(しかも下の名。)のお母さんは、知らない人からも挨拶された。
私を知っているんですか?と聞いたら、
ええ、○○くんのお母さんでしょ?
と言ってもらった。
社交的だったからか、先に人間関係を作っておいてくれていたようだった。
でも、息子や私より、どこか娘の魂は高貴な気がする。
友人が、
この子、魂が高い。この子に俗っぽいこと言ってはダメ。
と言ってくれたことがあった。

そんなこんなで、私は、みんなが価値観や感性が似ているとか同じだとかで一緒にいるのではなくて、一緒に楽しく生きていくために、ちょっとずつ譲歩をしたり、引いたり、時にはここだけは譲れない、とばかりにあれこれ協力して生きていくものだと思えるようになった。
集合住宅で過ごしたことがなかったから、夫の会社での関係がそのまま家庭に入ってくるようなことがどういうことかもわからなかったし、今ならわかることも戸惑ってばかりだった。
それに、どこか自分の子どもを自分の考え方で育てたかった面もあり、そうそう周りに流されることを良いことと思えなかった部分もある。
それも子どもたちにとってはどうだったのか?
夫は私の社交性のあるとことを買ってくれたらしいけども。
これは大学でも言われた。
でも、本人は社交性があるとは思ったことがなかった。

年を重ねて、やっとわかったことは、みんな孤独なのだということ。
ときに一緒に勉強したり、仕事をしたり、生活したり、その時が楽しくなるよう、一生懸命に協力しているのだということ言うことがわかった。

清少納言の、「同じ心の人」と、という表現があるが、同じ心の人などいるのだろうか?
月を見て、花を見て、その季節の風の香りを感じ、雰囲気を味わい、でもその味わい方も、それぞれだから楽しい。
確かに感性が似ているということはあるだろう。
こんなこと言ってる私だって、なんだか同じ牡牛座の人って、感性似ているな、とか、あ、わかる、この人牡牛座な感じ。

でも、最初に気が合う人がいるということを前提で気の合う人を探すのと、そんなひとはいない、と思って、そういう人が現れたのでは、ありがたさが違ってくると思うし、そもそも姿勢が違うということになる。

以前、ある人に言われた。
基本的に自分しか信じていない、と。
その、一見寂しい言葉から、私は逆説的に心理を得た。
みんなが信じられてしかるべき、と思っていたら、信じられない人が出てきたら、一回一回辛くなる。
でも、自分しか信じなかったら、もし自分と同じ心のような人が現れたら、その出会うことのできた僥倖に、とんでもなく感謝できる。

物事ってちょっと考え方を替えるだけで、ものすごくありがたいことになったり、日々が楽しくなったりするものだと思う。