人生の中での登場人物

最近気づいたのだけれど。

人生の中にはいろんな登場人物がいる。
そりゃあ、もう腹の立つ、思い出しても嫌な奴、という人もいる。

けども、大抵、その嫌な奴によって、実は自分の人生が豊かになったり、あるいは大きな恩恵をもたらしてくれている、というのは本当によくあることだ。

自分にとっていい人、というのは、まるでこの人生を生き抜くための一服の清涼剤のようなもの。
ありがたい。
けど、ありがたい人は、一緒にいて嬉しいけども、自分を成長させる、という意味では、いわゆる関西弁の、かなん人の方が役に立っていることの方が多い。
これは経験論である。
別に我と自ら苦労することもないのかもしれないけども、嫌な人って、だいたい砥石みたいなものになる。
特に私の場合、嫌な人に負けた、という経験がないので。
だいたい嫌な奴は、こちらが、あれこれ努力していると自滅していく。
別に何かことさらこちらが労力を使うこともないのである。

まだ人事的に、とかいうなら可愛いものだ。
だいたいにおいて、自分の一番大切のもの、あるいは一番大切なひとに、返っていくような気がする。

私には大切なものもあれば、大切なひともいる。
だから、正直に生きたいし、裏表なく生きていたい。

先日、ある人に責任を問うてみたら、即座にその場にいない人や、後輩のせいにした場面に遭遇した。
ああ、この人人望ないな、と思った。
即座に人のせいにできるなんて、それこそ、それを習慣にしていなければ、さっと口にできるものではない。

あまり接する機会のない人だと、そのちょっとしたときに、とても効果的にいい人めいた言動をしていればいいのである。
そしたら、非常にインパクトを持って、いい人を印象付けられる。
なかなか巧妙なので、普通の人は見抜けないだろう。
でも、利害関係があったなら、次第に発覚し、人望を失くし、誰も助けてくれなくなる。
そう思えば頑張ることなんてないなあ、と思う。
誰かのしたことになんか構ってる時間が惜しい。

今日、また、新しい生徒さんとの出会いがあった。
私の人生が、その生徒さんの成長に役立てそうな逸材になりそうな生徒さんだった。
登場人物には意味がある。

その登場人物を自分の人生に生かすも殺すも、自分次第である。
その人の成り行きは知らないにせよ、自分にとってどうするかはすべて自分に掛かっているというものである。