大好きなことができなくなることー文章を書くこと

昨年は、すっかりあきらめてしまったので、今年の夏は新たに挑戦!とばかりに、ブログだけは書くつもりでいたのが、お盆開けごろから怪しくなって、とうとう書けなくなって、2週間ほどが経とうとしている。

好きなことだって、やはり物理的に無理な時は無理だということなのだろう。
指導があって、あれこれ打ち合わせもあって、今年は少々お出かけもして、お料理もして・・・、そして夏の終わりころにはピアノも復活させた身としては、まあ、仕方ないと言えば言えるのだけれど、文章を書くにはやはり内面の充実がなければちょっと難しくなってくる。

昨年の指導では、ちょっと難しめの指導をいくつか抱えていたので、それに比べれば、今年はやりやすいと言えば言えるので、ブログだけは書きたい、と思っていたのに、やはり途中で無理になった。

無理になる理由というのもあるにはあるのだけれど、その理由を話すわけにもいかず、この夏はあれこれ盛りだくさんの夏だった。
私が、誰かのためにそうしているということをわかってもらえているのかそうでないのか、そのことをわかってもらいたい、と思うのは、見返りを求めているようで、良くないよな、とは思いつつ、ちょっと察してくれると嬉しい気もする。

そもそも、誰かにわかってもらいたい、と思っている時点で、相当に甘ちゃんだよな。

人知らずして恨みず

人がわかってくれなくても、認めてくれなくても恨まない。
そんな孔子の言葉をいったいこの数か月、どれだけ繰り返し心の中で繰り返しつぶやいてきたことだろうか。

そんなこと言ったら、子育ての時代、誰が認めてくれるのか?というほど忙しかったけれど、そして、できないことばかりを数え上げられて、できることなど物の数に入っていたのかどうか?
とはいえ、母の日に娘が美術の先生のところで、パッチワークの絵を額に入れてもらって、プレゼントしてくれた時は、こんな至らない親なのに・・・、と嬉しかったし、そっと雪かきをしてくれた時はありがたかった。

少しばかり、問題とすることがあるほうが文章は書きやすいのかもしれない。
それでも、複雑に交錯して、いったい何を考えているのかじぶんでもわからなくなったとき、ちょっと書きづらいというのもあるのかもしれない。