心配するということは思い通りにしたいということ。

昔、私があることを心配していたら、寮長先生が、
心配するということは、思い通りにしたいんだよね!
とおっしゃって、それこそ目から鱗でした。
私の直属の上司は高校部の校長先生でしたが、住んでいた寮の寮長先生も、物理の先生であった副寮長先生も、随分よくしてくださって、時にアドバイスをくださいました。

受験などでは思い通りの進路にしたいから、心配するような心で受験勉強してきましたから、何をおっしゃっているのだろう?という感じでしたが、その後の2年ほどで、私はあまり心配をしなくなったように思います。

私は過程では相当苦労するのですが(心理的に?)、その割に結果が出たら、
なんだ、こんなことになるんだったら、あんなに苦しまなくってもよかったのに・・・。
といつも思ってきました。

教師は生徒を思い通りにしようとすると思いますか?
もしそういう指導法があるとしたら、どこかで間違っていると思います。
なぜなら、人の言動、ましてや心など絶対に思い通りにならないからです。
思えば自分の言動や思いだって思い通りにはなりません。

ここで仮説です。
仮に自分のそばにいる夫や妻が、愛してくれていないのに、ずっとそばにいてくれたとしましょう。
パートナーは、経済力か、体裁のために一緒にいます。
心はとっくにどこか違うところに飛んで行っていることがわかっている。
それはしあわせでしょうか?
それに愛されていることになるでしょうか?

家族と言うのはけなげなけなげな努力の積み重ねで成り立っているものです。
お金や違う何かで縛り付けるものではないと思います。

それと同様に、教師も自分の指導力のなさを権力で、力づくで言うことを聞かせるというものではないと思います。
というわけで、だいたい思い通りにさせる、とか、言うことを聞かないと表現すること自体がナンセンスだということになります。
言うことを聞くのではなくて、この人の言うことなら聞きたい、あるいは聞いておいた方がよいな、と自然と思わせるだけの自分に魅力や人間力があるから人はついていくのです。
着いて来てもらうだけの力もないのに、○○が私の言うことを聞かない、なんて表現は愚の骨頂と思われます。

正しいことを言っていても、言った相手がそのようにしてくれるかどうかは別です。
当たり前に依頼ではなく、命令になってしまったら、それは誰も言うことを聞かなくなります。
何もしたくならないと思います。

というのも昨日気づかされることがあったのです。
当然にそれをしようと思っていたときに、
○○を出しておいて・・・。
と言われたのです。
私はものすごくむっとしてしまったのです。自分でもどうしてなのかわからないくらいに。
そのことを今日考えていたのですが、どっちみちしようと思っていたことなのに、なぜ言われて嫌だったのか?と言うと、その言った人の心には絶対にそうしてもらわないと困る、というニュアンスがあったからです。
やるかやらないかは、それがどれだけ正しいことであっても、それは私の自由です。
相手は私がそれをしようと思うように工夫をしなければなりません。

思えば家族になり、子育てが始まってから、こういうことはたくさんありました。
夫がどう言えばやる気になってくれるか?子どもたちがママの言うことだからしなくっちゃと思うようになるか?
それこそ言い方というものはありとあらゆるものを工夫しました。
相手がやる気になるように表現するのは私の仕事。
やるかやらないかは相手の問題。
家族として、それはないよ、という場合もありますが、ある程度までは努力で何とか。
それでもやってくれないような人なら、それはそのご夫婦の判断で、その先は決まってきます。

だいたい命令ばかりして周りを思い通りにしようとする人に素敵な未来はないわけで。
だって、自分が工夫することを放棄して、周りが思い通りに動いてくれたりしたら、あまりにも自分というものがありません。
社長が社員に命令ばかりしているのと同じで、心の底から着いて来ていなかったら、いずれ離れることになります(ああ、耳が痛い。)。
特に家族でありながら、力関係でどうにかなっていること自体がおかしい。

いやいや、その前に正しくても、言い方には工夫。
それから、人は思い通りにはならないのだ、というお話でした。