最近、嫌いであるとか腹を立てていることに気づくようになったこと。

大人なので、嫌いであることを明確にすることも、腹を立てていることを見せることも、あまり好きではないし、既卒生で、卒業していった生徒さんからは、
先生の気遣いは、気遣ってると気づかないくらいに気遣いが自然、と言ってもらった。
だから、ダイエット中のそばで、ケーキを食べられたら腹が立つように(私はダイエット中、別に苦しくないので、横で何を食べられても平気ではあるけれど。)、自分が気遣いをし、失礼にならないように言葉を選ぶような場面で、とてもストレートにご自分の利益だけを考えているような表現を聞くと、非常にイライラする。

これって、京都人?
なんて言うのは、京都の人に失礼である。

私は、大阪出身である。
大阪の人はわかりやすくて、好きも嫌いも結構明確にわかる。
その良さはわかっていながら、一方、兼好法師が『徒然草』で書いているように、京都の人は、優しさゆえに婉曲表現をするのだ、つまりは優美だという意見にも賛成である。
なんでもストレートに言っていいわけではない。

私は常日頃、怒りたくないし、嫌うことをあまり自分に許していなかったりする。
よほどのことがないと怒らない。
でも、怒ると怖いし、手が付けられないので、怒らせないでほしいと願っている。

いや、怒って相手とけんかする、とかいうのなら、まだいい。私の怒りは冷たいから、自分でも嫌なのである。
たぶん、しゃべることもできなくなる。憎むとかならまだいい。あったかい。

でも、少し嬉しい。
今の私は、明確に腹を立て、嫌っているからである。
その自分に気づき、そのことを許したからである。
ぶちぶち言っている間は、相手に愛情があるし、悩みがある。
でも、悩みなく腹を立て、嫌っているから、もう終わり!

新たな発見である。
仏の顔も三度まで、とはこういうことを言うんだなあ・・・。