気遣うことの双方向性

私は、よく気遣いについて、褒められることがある。
こんな仕事をしていたら、恥ずかしくて、とてもこんなことを書く勇気はないのだけれど・・・。
私は、結構サバサバして見えるけれど、結構気を遣ってる、とか気配りしている、などと言われることが多かった。
そして、最近、一番うれしかったのは、この春大学生になった卒業生だった。
先生の気遣いは、気遣いしていると感じさせないほどの気遣い・・・、と言ってくれた。

彼女とはあれこれあった。
私と出会う前に出会った人たちを投影して、最初は私の言っていることを真っ直ぐには受け止めてもらえなかった。
その気持ちをほぐしてほぐして、私も彼女を理解できて(それだけ誤解されやすいタイプであったとも言えるかな?)、最後には一番相談に乗ってもらいやすい人になった。頭がいいので、そして論理的なので、そして悪く曲解しないので、客観的、冷静な判断がうまいのである。
でも、ときに、頭だけで考える分、人を良く思いがちなところがあり、それがわかるだけ、ふふふん、私も大人になったのよ!と思えてみたり。
ある一面、頭だけで判断しようとしていた若いころの自分を見ているようで、自分の思考のくせを思い出したりしていた。
この仕事のありがたいところは、自分の、ある一面を見せられるようで、ああ、自分はこういう状態になっていたのだなあ・・・、と思えるところである。

何でもそうであるけれど、どちらか一方が気遣いをしている、というような関係は続かない。
どちらも相手のことも自分のことも考えて、そのバランスがいいときに関係が続くような気がする。

それから、嫌でも、きちんとけじめをつけないといけないということはあると思う。
きちんと謝る。きちんとやめる。きちんと境界線を引く。
うやむやにして、相手がどちらかわからないような、はっきりしない気持ちになるというのは良くないと思う。
だから、誰とでもうまく行く、誰にでも好かれる、というようなことはありえないと思う。
時には対立しているのか?ということも言わなければならないこともあるだろうし、気まずくなっても、そこはしっかり話さなければならない、ということもあるだろうと思う。
そこを回避して、いい顔をして、続けられはしない、ということもあるだろうと思う。

彼女とも何度も話し合った。
だから、勉強を最後まで続けることができた。
続く、というのはそういうことだと思う。
どちらか一方だけ辛いのではなくて、共に辛さも喜びも共有できる人同士が続いていくのだと思う。
また、関係性の構築というものは、そういうものであると思う。
楽して、どちらか一方が楽して、どちらか一方がしんどい、という関係は続かないと思う。

その辺の感じをお伝えしていきたいなあ、と思うのである。