考え方の枠組みを替えること

たとえば、何かが起こったとする。
それも、不都合なことだとする。
たぶん、誰にでも不都合なことは起こるから。
そのときに、なんでこんなことが起こるのか・・・?と思ってしまったらもったいないと思う。

私の人生の中で、自分を最も成長させてくれたのは、不都合な人や不都合な出来事である。
いや、あまりにも理不尽なことは、耐えてばかりではいけないと思う。
きちんとおかしいと思うことはしっかり周りにも表現しなければならないだろう。
でも、ある程度の苦しいことは、まあ、経験してみるのも一法である。
いい気分で過ごせる人、あるいはそういうことというのは、あまり自分を成長させてくれない。
新卒で勤めたときの大変さ、大学で、敢えて厳しい部活を選んだ時の鍛えられ方を思うとき、苦手な人を乗り越えてきた様子や、通学が大変な中で時間を工夫してあれこれやっていたことをなどが、とても懐かしくて仕方がなくなる。
どうして、あれほど自分を鍛えようと思い詰めていたのだろうか?
もう少しのんびりしてもいい雰囲気もあったのに、なぜにあれほど生き急いでいたのだろうか?と思う。

でも、頑張った分、今の自分につながっていることがたくさんある。
それも経験しただけ、また同じようなことが起こったときには、ああ、こういうことか・・・?と判断も速くできるようになり、どうするか?ということを早く決めることができるようにもなってくる。
自分を可哀想がって、そこに安住することは簡単だけれども、今の大変さを、自分を鍛えてくれている、と思えば、過ごし方も変わってくる。

先日、性格診断をしてみた。
どうも、私は今現在の仕事の仕方が合っている性格らしい。
確かに、来し方を考えてみると、今の自分になるために、鍛えてきたのかもしれないなあ・・・、と思わされる成り行きではある。

教育現場にいたことで、子どもたちを育てるときに、それはたいそう役立ったし、子育ての経験が、その後の教育活動に役立った。
相方の仕事を垣間見てきたために、ある程度世間についても教えられたし、また、自分とは違う世界について、あれこれ考えを巡らすこともしてきた。
途中、なんでこんな思いしなければならないのか?この経験に意味はあるのか?と札幌時代、与えられた役割に文句の一つも二つも言いたくなったことがあった。
でも、その時の経験はすべて今の生活や仕事に役立っている。
我と自らではなく、お仕着せでさせられていたことが、今の自分が選び取った生き方にずいぶん生きている。

だから、とりあえず、やってきたできごとには全力で対処するようにしている。
でも、この人、この出来事がどう考えても無益、どころか、弊害があるな、と思ったら、お付き合いにしろ、取り組むことにしろ、アッサリと止めてしまう。
お互いに良くないお付き合いだと思ったら、多少の不便さを伴うとしても離れた方がいい場合もある。

そこを見極める力をもつことが大切だと思う。