自分が頑張ってきたことを人にも強要することの怖さ。

昭和の時代に生きてきて、まだ祖父母や、下手したら両親から戦争についての話を聞かされてきた世代である。
戦争についての記憶を忘却させまいという周りの努力を感じてきた世代でもあるだろう。

今の若い人は・・、という言葉はあまり使わないようにしているし、実際に思うこともない。
自分だって、十分に甘い親してきたし・・・。

ただ、これは良くないなあ、と思っていることがある。

私たちが我慢してきたのだから・・・。
私は言われてきたから・・・。
○○の立場なら当然言われること・・・。

これでは単純に悪しき考え方の連鎖ではないか?

それよりも、どの世代も楽しく生きていけるあり方はないのだろうか?
年老いて若い人に遠慮するのではなくて、若いから威張るのではなくて、自分が○○の立場になったから下の者に言えるのではなくて、人にはそれぞれ尊厳というものがある。

かつて、絶対にあってはならないことが家で起きているのに、○○は我慢したのに、○○は我慢しなかった、という表現をした若者の言葉を聞いた。
それも、そういうことがあってはならないという分野を勉強している若者の言葉である。
唖然とした。
人権意識はないのか?と。

かく言う私。
別に儒教の影響などというのでもなくて、単純に自分よりも年数を生きてきた人は尊敬しているので、長幼の序、というものには敏感である。
もちろん、欧米ではあまり好まれない考え方なのかもしれないけれど、それとて、私は欧米で暮らしたこともないので、知らないところでもっと細かい分類があったりすることも知っている。そんな、表面的な知識で語れるほど人の意識など簡単に知ることなどできない。

ただ、良くないものは良くないものとして、改善する努力は大切である。

一方、教員として仕事を始めた学校は、決して労働条件的には良いとは言えなかったかもしれない。
それでも、私にとっては、そこで学んだこと、乗り越えたことは、一生モノの財産なのである。

ブラックなどという言葉で一刀両断に切ることもできるのかもしれないが、自分を強くしてくれた試練まで、そして乗り越えてしまったことまで、否定する気はない。
しかし、○○はそれを乗り越えたのに、○○は・・・、というのはどうかと思う。

続けた人は続けたことに意味を見出すだろうし、途中でやめた人はやめたことに意味を見出すだろう。
それでいい。
それを、○○は続けて、○○はやめた、という比較は成り立たない。

私は言われてきたから、つまりは、注意されてきたから、と言われたことがあった。
つまりは、あんたは言われない、注意されない。

それはもしかしたら、私がその注意されることをしていなかっただけなのかもしれない。
でも、言われて嫌だったのなら、自分が言うのを止めればいいのである。

基本的に、今は、というレベルではあるけれど、人にされて嫌だったことは、あまりしないようにしている。
自分より上世代が、そのまた上世代からされて嫌だったことを、下の世代に言うつもりもない。
いわゆる毒親などと言われる性質の一つである、苦労話を延々する気もなかった。
先輩にされて嫌だったことで、それが無意味であるなら止めればいい。自分がされてきたのに、今度はそれを誰かにしないのは損、などということは、端っから仲良くしたくない、と言っているようなものである。

時代に合わせて、みんなが仲良く生きて行けるような社会にならないかなあ、できることはないかなあ、と思っている。
そのためには知らないといけないことはたくさんあるなあ、と思う。

ただ、先日、ある事件が、起訴されて、ああ時代は変わりつつあるなあ、と思っている。
20年前だったら考えられなかったことであろう。
何でもかんでも明るみに出ればいい、というものでもないかもしれないけれど、常識では考えられないところに事件は起こるはずであるので、自己責任論だけに任せるのではなくて、その心理状態などを学んでいかなければならない。

幸いにして、教え子に、そういう方面に進み、専門的に勉強しようとしている卒業生がいる。
いつか頼りにできる日が来てほしいものだと思っている。