自分で限界を設定せずにやってみることの重要性


先日から考えさせられることが多い。
なぜ、この人はできないと思い込んでいたのか?
なぜよくはならないと思ってきたのだろうか?

今日も面談をしていて、なぜ、この学校からだったら、○○大学に行ける、とか行けない、とかということになるのだろうと考えていた。

とりあえずやってみてはどうだろうか?
目指すのは簡単である。
いや、いきなり普通の成績を取っている生徒さんが、東大だとか言い出したら、私も、もう少し考えてから、と言うかもしれない。
けれど、そこを目指してみる、ということ自体は別に自由である。

たとえば、自分の身体の不調との付き合い方。
小さなことの積み重ね。
一挙によくなることはなくても、少しずつの積み重ねは大きい。
毎日栄養のあるものを少しずつ食べる。
少しずつ身体を動かす。

子育て時代、私はどうも、自分の仕事の立ち位置と、家庭での自分というもののバランスが取れていなかったように思う。
上の子が小学校低学年の頃に、急患で診ていただいた先生に、変頚腕症候群ではないかな、と診断された。
PTAの会合のあった夜に会合の帰りに寄ったのである。
その日のお昼間、熱もないし、風邪でもないのに、頭痛がして、吐いて吐いてしようがなかったのである。
今から思えば、片頭痛と緊張型頭痛があったのだと思う。
今は、緊張型頭痛は時折軽くは出ても、吐くまでには至らない。

時折、その前日まで平気だったのに、いきなり寝込むほどの頭痛に悩まされ、鍼に行っても整骨院でも、これね、と凝っている部分をつままれたりもした。
それを訴えると、件の掛かりつけの先生は、また、ご自分のことをおっしゃり、最近ないけど、僕もある日突然、頭痛がして、それも車のアクセル踏んでも痛くて・・・、と言われて、そんなもの抱えて、どうしてこんな仕事をされているのか?と思ったことがあった。
いつからかなあ、治ったなあ・・・、とぼーっと言われた。

自分がわがままなような気がしたけれど、要するに、如何に自分のもってる症状と付き合うか?ということを伝えたがっておられたのではないか?と思う。
ストレッチをしてみたり、できるだけ疲れないようにしたりしていたけれど、やはり子育て中は誰だって結構無理をする。
あれはきつかったなあ、と思い出す。

最近は、友達からあなたはあまり身体に出なくていいよねえ。年だから、最近いろいろあるよねー、と言われたりするけれど、あの子育て中で、非常勤で働いていた頃に比べれば、睡眠不足は昔からあまり強くないタイプではあるけれど、まあまあ健康な方ではないかと思う。
時間があればダイエットでもしたいものである。
仕事が夜に偏るので、どうしても、食事が不規則になりがちで、バランス悪く、食べている量のわりに太りやすい。

などなど、それが人生のいつの時代であったとしても、私たちは、自分の身体をできるだけ健康な状態に保ち、楽しい人生を送る権利もあれば、ある種の義務もある。
いつ死んでもいいわ・・・、などといくら高齢者であろうとも、そんな表現されたとしたら、周りは悲しいだろう。
また、そういう状態にしていると思ったら、辛いに決まっている。

人生の最後まで、楽しく生き生きと暮らす方がいい。
少しでも楽しみを見つけて、自分の努力で、自分の身体とうまく付き合い、甘えるところは甘えて、また、支えてくれる機関にもお願いして、あれこれやってみる方がいい。

若いころを基準に何もできなくなったのではなくて、今の自分と付き合っていく、そんな心構えでいたい。

かく言う私。
若いころなどに戻りたくなどない。
若い人たちが、私たち世代をどう思おうとも、私は、若いが故の大変さを通り抜けてきたものとしては、もう勘弁してほしい。
今の年代が気に入っている。
そして、この先のことを心配している暇もないくらいにしなければならないこともしたいこともたくさんある。

だいたい、人と比べたり、人と付き合ったりする以上に、自分というものとの付き合いって大事なんじゃないかなあ、と思っている。
それほどに人生は楽しいことに溢れている。