自分のしあわせが、誰かの努力によって支えられていることを意識するかしないか?

高齢の母の世代の夫婦関係について聴いていると(大抵はもう旦那様を亡くされた方が多く、これからどうして過ごしていくか?などと楽しんでいた仲間の方々のお話。)、本当に、恵まれて、しあわせ、とだけ言える人生はないのだなあ・・・、とつくづく思わされる。今は亡き伯母や、叔母の話を聴いていると、あれだけ厳しかったけれど、母の、母に優しくて、無理を言わなかった父との母の結婚生活は、かなり恵まれていたのではないか?と思わされる。
父の母への思いを思い返すとき、父は、母が今、しあわせに楽しく暮らすことのみを思っているのではないか?と思えてくる。
愛されていたんだろうなあ、と思うけれども、父と母にもあれこれあったことを知っているので、夫婦生活というのは、なかなかに大変なものであると思わされる。
私の結論としては、家族なんて、もっと言うなら夫婦なんて、究極の人間関係だと思っている。

ただ、ものすごく割り切って、男性の仕事が外で働くことがメインで、女性の仕事が、子育てや家事がメインだと考えた場合、自分の反省の意味も込めて、今いる自分の生活が、少々の大変さはあろうとも、相手の努力によって成り立っていることに思いを馳せているかそうではないか?ということは大きくその関係性に関わってくると思う。
富山を舞台にした、『Railway』の主人公、三浦友和演じる運転士と看護師だった奥さんの思いのズレは、誰にでもあるものではないか?と思わされる。相手の大切なものを大切にできているか、また、仕事をすることで生活できているのは誰のおかげか、そして、その仕事ができるのは誰のおかげか?そして、仕事に対する思い。仕事というのは、大変にその人を育てる。また、子育ても、自分の努力でどうすることもできない分、私などにとっては、勉強や仕事よりも大変なことであったと思わされる。仕事の方が大変、という考え方は、あるいは仕事をすることで家族を守っていることのすべてであると考えるのはどうかと思う。
仕事は大変。家庭生活も大変。けれど、その中心にいてくれる人の大変さや思いに、気持ちをもっていけるかどうか?自分が少しでも楽になればいい、とか、結婚を相手をしあわせにするよりも、自分がしあわせになることばかりを追究すれば、そこからズレは生じてくると思う。

母たちの世代は、私たちほどには選択肢がなかった分、耐えることがメインになっていて、その粘り強さたるや、私たちにはできない、と思わされるものがある。
私たちの方が、選択肢が多かった分、考えることも多かっただろうし、自由である分、その自由の重さを実感してきた世代であるのではないだろうか?
クリスマスケーキ、などという言葉が、まことしやかに語られ、その通りに生きていくことは、ある意味容易だったのかもしれない。
25歳までに結婚し、そして子供を産み、育てる。それがどこか女性のスタンダードで、それを望んでいたわけでもない私も、その通りに生きてきたようなところがあった。
どんどん生き方の自由度は高くなっている。
自由というのは、扱うのを間違うと大変なことになる。
意外に、制約の中で、優等生的に生きていくことは、楽な時もある。それが正しいとさえ思っていれば。

最近、誰かが言った、正負の法則、のように、人生の前半戦で苦労した、後半戦で苦労した、その、苦労したり、しあわせだったりする総量は、みな平等である、というようなことを聞いて、なるほどなあ、と思わされる。
漢文などを読んでいると、人生最後の方に宰相(大臣クラス)になって、名誉も経済的余裕もある生活をする、その大人物たちの前半戦の壮絶な人生を思うとき、ほんまにそうかもしれないなあ・・・、と思わされるところがある。

あの人はいいな、とか、あの人よりはマシ、などというような表現を聞いてきたことがあるけれど、その、あの人はいいな、と思われている人の苦労を聞かされたことのある私は(仕事柄、そういうことを見聞きさせられることが多々あった。)、もう誰のことも羨ましいとも、あの人より、などと誰かと比べることもできなくなった。

もしかしたら、本当に、しあわせやそうでないことの総量は決まっていたりするのではないだろうか?