訳あって、手洗いをしたのが楽しかったこと。

私は、ときに一人で家事をしていると、滅入ってくることがある。
どうもネガティブになる。
自分の内面につい沈潜して行ってしまいそうになるというか・・・。
家族との良くないことばかり思い出すというか、深刻になるというか・・・。

それなのに、今日、洗濯機の都合で、結構な量の洗濯物を、しかもお水で手洗いする・・・、という仕儀になり、やっている間に嬉しくなって、元気になって、ついちょっと前まで、なんだか深刻になりそうな自分と闘っていたのを忘れてしまったのである。

朝早くに雪かきをした。
隣の旦那さんが、されているのに気づいて、本当はもう少し後の方がいいかな?と思っていたのだけれど、もうさっさとやってしまおう・・・、ということで、まずは自宅の雪かきをし終わり、おまけに教室までその出で立ち(昨年用意した、ワークマンで揃えた雪かきセットを着込んで・・・。)で、重たいシャベルを片手に持って出かけ、教室の雪かきをしてしまった。
これくらいの雪は、どうってことない。
むしろ身体にいいくらい。
ただでさえ、教室で指導ばかりして、運動不足になりそうな季節である。

そのときに、一緒に雪かきしていた人の、ご近所に対する言葉に、ふと胸がふさがり、嫌になっていたのである。
うちにたいしてのことではなかったけれど、学生時代を京都に通っていた自分としては、そういう発言は許されないでしょ?というものだった。
どこどこの家は・・・、的な、聞きたくない話だった。
それもお金に絡んでいるお話だったので、そういう話はしてほしくなかったし、聞きたくなかった。

それを考えながら、家で用事をしていたら、思わず落ち込みそうになって、気がふさいだのである。
でも、順番的に手洗いで洗濯をしていて、洗面所の自分の顔を見ていると、だんだん紅潮してきて、なんとも嬉しそうなのである。

真冬の冷たいお水で洗っていて、お風呂のお水を使おうかと思っていたけれど、その次の瞬間には、どうも冷たさに慣れてきて、私は楽しんでいたのである。
で、思い出したのである。
小さいころ、自分たちが住んでいた方の棟の階段の下にあった、洗面所で、私は、祖母にも母にも隠れては、その洗面所を洗ったり、水遊びをしたりしていつまでも遊んでいたことを。
そして、私にはいつも水があったことを思い出したのである。

時折、仕事という、ある意味体系的なことをしていて、その中での発見はさることながら、対照的に、ちょっとした家事の中で発見をすることがある。
それは、仕事よりもより身体的とも言えるし、ちょっとした気分の変化に気づく、というようなことでもある。
いつもは家電に頼っている家事を、自分の手でやってみることかもしれない。

私はお皿洗いも好きである。
とても食洗器を買うなんて思いつかないほど、好きである。
しなければならないことになり、結構大量になれば、また話は変わって来るけれど、私は、したくないことをするのは基本的に嫌いなので、しなければならないことは、基本的にしたいことにするようにしている。

昔むかし、まだ小さくて、妹も生まれていなかった頃、庭で、祖母と母が手で、たらいで衣服を洗っていた。
その風景を思い出した。
家電に頼って、如何に楽に、きれいに仕上がるか?というのは主婦の喜びなのではあるけれど、久しぶりに手で洗ってみて、ああ、こういう単純なことって、癒されるよなあ・・・、と気付いた次第である。

なんでも、アメリカではうつ病が多いと聞いたことがあった。
もう何十年も昔のことである。
それを、その話を書いたご著者(知っている人だったのだけれど。)は、今や、家電製品が溢れ、主婦の仕事もかつての半分、あるいは三分の一になったから、しなければならないことも少なくなり、その分考えることが多くなった。動くことよりも考えることが勝つと、鬱的になる(その方は、文学を学ばれた後、医学博士になられた方で、哲学的な論考などを拝読していた。)というようなことを間接的に教えていただいた。

今なら、女性の社会進出も活発になり、そういうことを言っているわけにはいかないのかもしれない。
でも、私は、ある意味、そうだなあ、と思ったことはシンプルに信じてしまう私は、考えてしまいがちなので、考えそうになったら、行動することに決めていた。
鬱とまでは行かなくても、滅入るのよりはいいと思った。
それでも身動きできないほど気持ちがふさぐことなどは誰にだってあるだろう。

そんな時こそ、単純なことをしてみる。
ちょっとしてみる・・・、というのは、気持ちを外側に向ける、きっかけになって、いいな、と思っている。