高齢者のおばあちゃんの話をお聞きしていて・・・。ー身内ですが母ではありません。

先日、今の取り組みを褒められたのをいいことに、ちょっと相談しようとした相手から、逆にさんざん愚痴を聞かされることになった。
およそ50年余りの夫婦関係についての愚痴である。
相談室をご利用というわけではないし、関係性の気安さから、相当の毒舌をお吐きになった。

ご主人からの、精神的、肉体的、経済的DV、そしてご兄弟へのご不満。
テレビにで出てはるご夫婦見たら、腹立って、叫びたくなるわ!
とのこと。
まあ、相当に横暴なご主人だったのだろう。
挙句に、
実家に帰ろうかと思ったわ・・・。
というくだりになって、ああ、それ、相談員の人を怒らせたパターンを聞いたことあるな、と思った。
かつてどこでだったか、お父さんのせいで無理やり嫁に行かされ、逃げたかったけど逃げられなかった、と言って話す人に、
私たちはもう怒りたかった。出ればよかったし、出ない選択をしたのはその人でしょう?
まあ、女性がひとたび家庭に入ってしまったら、出るのが簡単でないことはよくわかる。
よくわかるが、一生愚痴って生きて行くのもそれまた大変であることもよくわかる。
積極的に行動されてのことならば聞けるかもしれないが、そうでもなく、ただの周りが悪いという愚痴。
お子さんも、よくあるパターンらしく自分たちには良くしてくれた亡き父のことを聞かされるのは我慢がならず、
いい加減にしてくれ!
とおっしゃるのも頷ける。
彼らにとってはお父さんは自身のルーツであるから、どれほど母親がひどいことをされたことを認められたとしても、自身のルーツを悪く言われていい気がするものでないこともわかる。
その時に思ったのは、耐えて来られて、お子さんが立派に育たれたことを誇りに思われたらどうだろうか?ということだった。
一緒に出ても、残してきても、それなりにお子さんには傷が残る場合が多い。かと言って、お母さんが生死にかかわるようなDVの場合は出て行かなくては、命を長らえることすら危ないから出ていくことが正しいことになるだろう。母親が死んでしまったら、子どもたちはその後やりきれない思いをするだろうから。
では、死ぬほどではなくて、でも横暴なご主人と添い遂げられた場合は、その人生を肯定するために、犠牲になった、というよりも、子どもたちを守り抜いた、と思われてはどうだろう・・・?と客観的に思ったのである。
そうそう冷静に割り切れることなどできないだろう。
でも、自己犠牲にはどこかで恩恵もあるはずである。
DVを擁護しているわけではない。絶対にあってはいけないものだと思っている。
でも、それを、夫との生活を過ごしきった場合、その間の自分の在り方を自分自身だけは認めてあげてもいいと思う。
ただ、お子さんたちにそのつらさをわかってほしい気持ちはわかるが、一方的に訴えるだけでは通じないかもしれないとも思う。
お母さんが、自分のことを認め、ご自身が乗り切ったときにこそ、お子様方に伝わる何かがあるだろうと思う。

それに、夫婦というのは最初からうまくいっているなんてことは少なくて、少なくとも築いていく営みである。それに双方の両親や兄弟姉妹も絡んでいろいろある。外では明るい顔をして何もない様子をしていても、いったん中に入れば何があるか分かったものではない。
ということを知る経験はあちこちでしてきた。
打ち明け話としてお聴きしたこともたくさんあれば、そのために
あなたが頼りやろうから、また、支えてやって・・・。
と依頼されたこともあった。それを頼まれるには偉大過ぎる方からの言葉だった。
今書いてみて思い出した。
娘に、不登校のお友達について、
○○救ってやって。ママ。
と言われたときのことを。
どうも教師としての私は、娘から信頼があったようである。母としては知らない。ただ、友人のように、
家のママは正直に言ったら怒らないから、家のママに相談しよう!
と小学生同士の悪事を打ち明けられたときには、私はお友達ではないんだけどね・・・。
と苦笑せざるを得なかった。

助けてやって・・・。
支えてやって・・・。

確かに便利な人の好さそうな言葉である。
ただ、それにはその人自身が、そのことを自分のこととしてしっかり受け止め、そのことに対して自ら行動しなければならない。
その状態をそれでいいと思うのではなく、どうにかしなければ、と強い思いにならなければ事態は動かない。
動けないのもわかる。
おそらくはエネルギーも枯渇しているだろう。
なんとかならないかな?とは思うものの、高齢になって、そのことばかりを言っているのもつらいだろうな、と思っているのである。