一人でもしあわせ。でも二人だともっとしあわせ。ー映画『阪急電車』を観て。

たった15分、行程たった7.7キロの阪急今津線。西宮と宝塚をつなぐ線である。
この沿線を舞台に描かれた『阪急電車』を観た。

息子夫婦とあまりうまく言っていない老婦人とその孫のやり取り。
2人が乗車する阪急電車で出会う人たちのそれぞれの人間ドラマがとってもおもしろい。

その中でも、高校生とアホ彼氏と言われている社会人のカップルと、対する女子大生と他大の彼氏の関係が対照的に描かれ、DV関係にある彼氏との関係を解消しようと決意するまでのその女子大生の心の動きがとても上手に描かれていた。
人間の心理というのはこういうものなのだろう。
声を掛けられたその大学生のルックスの良さから付き合いだし、最初は優しくされ、周りの羨望のまなざしもあって、彼女は2人の関係性のいびつさに気付かない。というよりこういうタイプの男性はそういう構図を作っていくことが巧妙なのだろう。
いつの間にかその関係性のおかしさに慣れ、時折自分の辛さに葛藤するが、優しいところもあるから、あるいは最初は優しかったから、と思い直す。
だいたいこういう男性と付き合う人というのはそもそも優しい人なのかもしれない。
一方、アホ彼氏などと表現しながら彼氏の大きさに包まれている高校生は、社会人の彼氏を尻に敷きながらも、とってもいい恋愛をしている。長女で我慢しいな彼女であるが、彼氏には結構バッチリ厳しいことも言っている。こういうパートナーに何でも言う子ってしあわせなんだろうな。
と言いながら、誰しもそれは良くないと思われるパートナーと関係を結ぶ可能性もあるのだろう。
何となく経験論ではあるが、横暴な人って、どこか自分に自信がありながら、あるべき姿の自分でないところに劣等感があり、それを身近な人に、特にパートナーのせいにして当たっているような気がする。
自信過剰と劣等感の乖離を埋めようとして埋めきれず、子どもっぽさのままそれを身近な女性に当たるのだろう。男性にやるというのは寡聞にして聞かないだけなのだろうか?
それって弱い者いじめである。
精神的にはどうであれ、男性の方がまずはたいてい体力的には力があるし声だって大きい。威嚇されれば怖いし、電車のホームで投げ出されてけがをすれば痛い。
最近になって、モラハラ(精神的DV)については、結構具体的に述べる人が多くなった。
若いころから、私もあちこちでモラハラについて経験してきたのだろうな、と思っている。
職場にも、男女というだけであれこれあったのを覚えている。
若いころはまだ頭で考えてばかりだったので、おかしいな、ということに一つ一つ反応していたと思う。
それが大人になる、という表現で、あちこちのひずみやおかしなことを呑み込んできたのだと思う。
ある意味みんなが表現できる時代になった。
それはおかしいと。
言葉にして表現すれば、もちろんどこかから風当たりも強くなるかもしれない。

私は小さいころ育った家で、むしろ女系家族で(父方がそうだった。おじいちゃんは入り婿だった。)、女性の方が偉そうにしていたし、それでうまくいっているのを肌で感じていた。
引っ越して、周りがそうでないところが多く、男性を立てる、ということを知った。
高校のときにはそうそう感じなかったけれど、大学に入って、いきなり男女差というものに気付き始めた。

言葉で定義することは便利だし、取り組みやすい。
とはいえ、何となく一緒にいることが居心地よい、とか自然でいられる、というのは大事である。
パートナーを選ぶときに、外見だけではなくて、中身との相性は大事だと思う。
有村架純演じる高校生の、玉山鉄二演じる社会人の彼氏が、理想を表してくれているように思う。
この二人は本当に愛し合っているのだな。

そして、今時こういう表現をするのは良くないのかもしれないけれど、その彼氏は相当に男らしいと思う。
本来ある男らしさも女らしさもそれは認めていいと思う。
それは周りから強制されるようなものではないだろうけれど。
自らの女性像に合わない女性に、可愛げがない、とか女性らしくない、と表現する男性をたくさん見てきた。
中には仲のいい男子もいた。
それも時代性というものもあるだろう。
高みを目指そうとしている彼女をしっかり応援する玉山鉄二演じる気のよさそうな社会人の彼氏を見ていて、ああ、この人は全力で彼女を守ろうとし、彼女の素晴らしいところを伸ばそうとしているのだな、と感じた。
素敵なカップルである。

こういう男性って、男性という前に人間として小さいときから周りに受け入れられて育ってきた人なのだろう。
男の子だから、と何か強い要求をされてきた人だとなかなかこうはいかない。
ある意味男性が強要されてきたものがあり、それがあまりにも圧のあるものだからこそ、それに耐えきれなくなって、女性に対して横暴になる人もいるのかもしれないと思える。
みんながもう少し楽しい社会を目指したいものだ。

男性である前に、女性である前に、人間としてお互いを尊重し、性によって、何かを強要するのではなく、個性として互いを認め合えるような。