傲慢だなあ、と思うとき

新卒で、教員になって、よく注意されたのは、「自分の限界を知る」ということについてだった。
教育に熱心であろうとすればするほど、自分で何とかしたくなる。
そう、対象である生徒さんを正しい方向に導こうとしてしまいがちなのである。

この春、ああ、こういう考えは傲慢だな、と思った。
わが子を、自分の思うように育てようとすることが、それは無理なように、生徒さんに、「○○が正しい。」ということを、仮に伝えたとしても、それをそうしてみようと思うかどうかは、その生徒さんの勝手なのである。

かつて、小さな息子が言ったことがあった。
「○○は、○○のことを、言うこと聞かん、という。することせんで言われるならわかる。だけど、ちゃんとすることしてるのに、言うこと聞かん、はおかしい。それに、言うこと聞け、というのは命令やぜー。人が人に命令するかー!?」
ちょっと極端と言えば極端だけれど、確かに言わんとすることはわかった。

たとえ、親といえども、教師といえども、人を思い通りにさせることなんてできない。
仮にそれが間違った方向であったとしても、本人が、それをやめよう、あるいは、何かをしよう、と思うことがなければ、無理やり、何かをさせない、何かをさせる、ということは、無理なことだと思う。

それは失礼な表現だな、ということだってある。
でも、仮に失礼だとして、それを言われた人は、いっとき、傷つくか、あるいは、落ち込むかして、そうして忘れるだろう・・・。
けど、言った本人に、言った言葉は、私は絶対に返ってくると思う。
些細なことだけれど、自分が、不遜にも表現してしまったことについて、後で、ああ、あのときのじぶんが言っていたことが返ってきたのだな、と思ったことがあった。
何か宗教めいて、因果応報というのではなくて、現代文で言うところの、造物主と言うか、この世の法則性みたいなものを、私は信じている。
だから、仮に、自分の娘が可愛かったら、お嫁さんを大事にすること以上に効果的なことはないし、自分の娘を不幸にするのに、お嫁さんをいじめることほど効果的なことはないと思っている。

私の場合、生徒さんを思って一生懸命に指導したり、導くことが、私の大切な人のしあわせにつながっていると思うし、手を抜いたら、自分の大切な人たちに関わる人が、手を抜く、と信じている。
だから、できうる限り、周りの人を大切にしたい。

それくらいしか、できることはないと思っている。
また、それ以上のことはできない、と思っている。