心理学を学問としてのアプローチと実践的なアプローチをしてきて、結構面白くなってきた件について。

私は心理学を専攻したわけではありませんが、大学時代、取れるだけ心理学の専門科目を取りました。
もちろん国文学は言うまでもありません。
意外に中国文学も大好きでした。
ある先生の文学概論にハマり、私はもう受講生でもないのに、次の年もほかの出なければならない授業を放って、その講義を聴いていたりしました。
ルカーチが大好きな先生でした。

心理学はずっと私の専門ではありませんが、もしかしたら国文学よりも長くお付き合いしているのかもしれません。
子育て中は子どもたちを見ながら、学校現場では生徒指導のために、その時々に必要なことを学んできたと思います。
多くは生きやすさについての追究だったと思うのですが、そこには教科指導的なあれこれもあって、生徒さんが効率的に学ぶk所とができるようにというアプローチと最も深く結びついてきたように思います。

最近、出会う人が多いからか、私は処世術的にも心理学を学んでいるような気がします。
議論になっても、私はさっさと降ります。
なぜなら、その時間がもったいないからです。
それに、議論をするにも相手を選びます。
この人とこれ以上話していても時間がもったいないと思ったら、私はさっさと降ります。
その人に勝っても意味がないからです。
常々生徒からもフラットだと言われがちだし、大学時代の友達にはもっとひどい表現で、誰に対しても態度が変わらないということを表現されてきたけれど、こういう表現をすると全く違う人間のように思われるかもしれません。

『平家物語』の中に、
されどもよい敵か。
という表現があります。
バッタバッタと敵を切り倒していく大将に対して、言う言葉。
あなた様にとって良い敵でしょうか?
という言葉。

無茶苦茶言ってくる人を相手にしてはいけないと思います。
自分の心が汚れます。
どう考えても自分が間違っているわけではないと思われる議論に時間を割いてはいけないと思います。
win-winの関係が築けない人とお付き合いしてはいけないと思います。
相手の足元を見る(例えば相手が今寂しい状態だとか、例えば子供であるとか、高齢者であるとか、友達がいない、とか。あるいは嫁姑の関係での力関係であるとか。考えられるだけの状態を想像して。)ような人と付き合ってはいけないのです。
そういう人との関係で議論などすると、自分の魂が汚れます。
いわゆるランキングさんというタイプでしょう。

相手と自分とを比較して、相手の方が立場が低いと勝手に決める。
そういう人とは付き合わない。
自分の本質を見る人と付き合っていると、人生を通しての友人はできます。

また、私は傷をなめ合うタイプも好きでありません。
成長がないからです。
今のまま留まっていることを肯定しようとして、相手もそうであってほしいタイプ。
○○さんとこは~なのよ。
という一言で、一緒に妬みましょうね、というような。

私は人は人だと思います。
自分が楽しければ、誰とも比較などしなくてもいいでしょう。
また、比較されたくもない。
そういうことのために時間を取られたくもないと思います。

というわけで、いろんな人がいらっしゃいますが、全部が全部自分の意見を言わなくてはいけないわけではないと思います。
そーっとそーっと離れてもいいと思うのです。

みんなに誠実であってもいいけれど、相手の誠実度によるとも思うのです。
それは相手にしないのとは違います。
そういう話はできません、ということでいいと思うのです。