思い出の塗り替えー変えられる過去

最近、私は、ちょっぴり過去の思い出を塗り替えた。

高校時代のことである。
高1、高2の時代、もともとおっとりしていた私は、ブラスバンド部に入ったものの、本当にのろまだし、あれこれ母校の生徒らしからぬ振る舞いから、先輩から、「ほんまにお前は、I高生か!?」とからかわれる始末。
「裏口ちゃうか?」(公立高校に裏口入学はありえないでしょ?)と言われて、即座に、「いえ、定員割れです!」と返していた。
美術が足を引っ張って、確かに危ない受験だった。
が、入ってしまった。
当時は、今ほど、というより今よりはるかに、要領が悪かったし、不器用だった。
だから、もともと適当にやれない性格が災いして、変にまじめにやって、数学が分からなくなった。

そうして、責任があるから、高2の3月までは、もう、仕方がない、と部活動一本に絞ることにした。
まあ、周りの無責任さと、いいとこどりする様子に(これは、ごくごく一部の、ほんの近しい関係者であったが。)、腹を立てなくもなかったが、だからと言って、誰かにかっつける性格でもないので、人がなんて言おうと、周りからなんて思われようと、目の前にあることを投げ出すのはやめようと思ったのである。
それは、周りの在り方とは別の、自分の問題である。
困ってはいたのだろうが、ことさら恨むわけでもなく、ただ、目の前にあることに取り組んでいた。
数学の先生に追い掛け回されていたが、それも、なんだか適当にかわし、かたや、私にかっつけていた人たちは、成績優秀で鳴らし、でも、それをことさらどうのこうのと思う気もサラサラなく、できんねんなー、と思っていた。
(大学に合格したときは、数学の先生は、「2年のときは、えらいいじめたけど・・・。」と言ってくださった。いえいえ、いまだに先生に教えていただいたことが生きています・・・。)
下手だから、先輩の指揮者に、まるで蛇ににらまれた蛙のように怒られ、それでも、どうしてやめようと思わなかったのかは、いまだに謎であるが、うまくもないし、おそらくは期待もされていなかっただろうに、辞めなかった。
そんな私を、庇ってくれる、というか、見守ってくださっていた先輩がいらしたからかもしれない。

恨んでいない、と言いながら、結構長らく、こだわっていたのかもしれないなあ・・・、なんて思い出す。
ただでさえ、吹奏楽は、厳しい世界である。

高三になって、勉強し出したら、数学から追いかけられることもなく、勉強だけしていたのは、本当に楽だった。
そうして、今、生徒たちが、いろんな教科を持ってきて質問するとき、少しずつでも、専門外の教科を教えることができたときに、鍛えてくださった先生方への恩を想うのである。
なにも部活動だけではない、高校生活を思い出した。

高校の教員になって、ゴマのように、音楽の先生のあとを着いて、吹奏楽部の顧問として、大阪府のコンクールに引率に行ったとき、なんと母校の先輩(ずいぶん先輩。)で、プロのオーケストラの奏者をしていらした方と出会った。その前に、母校の制服を着た後輩を見かけて、ちょっと声を掛けていたので、ああ、出場してるんだな、と思っていた。
懐かしそうに、「二次会、こっちおいで。」と言ってくださったが、引率する身でそれはならず、でも、その先輩が、折に触れて、思いやってくださっていたのを思い出した。フルートの大先輩も、気にかけてくださっていたっけ。

人間って、ついついしんどかったことや、辛かったことの方を思い出してしまいがちなのかもしれない。
でも、最近、ちょっと、高校時代を、明るい思い出として思い出すことが多くなってきたような気がする。
それは、教室の生徒たちのおかげである。
慕って、あれこれ質問してくれて、自分が役に立つとき、裏口か、とからかわれようと、怒られようと、あの時代を生きた自分が人様の役に立っていると思ったのである。

しかし、人間である。
怖かった先輩が、阪急電車の反対側のプラットホームで、バイト要員として、立っていらっしゃたとき、どうしても挨拶ができなかったことがあった。自分が3回生のときである。
会ったときには、普通にしゃべっていた。それでも、何かの拍子に、身体は、正直に反応していたのだろうと思う。
明らかに先輩も気づいておられた。

数年前、ある人がおっしゃった。
僕は、10人いたら、2,3人は自分のことを、なんか言うてる(つまりは悪口めいた?)と思ってるから・・・。と。
つまりは、人間関係に完璧はない、ということだろう。

ときには嫌ってもいい、憎んでもいいのかもしれない。
でも、いつか、ときが解決してくれる。
きっと、人のことも、自分のことも赦せる日は来るだろうと思うのである。

なんて書いたら、えらいおとなしかったようだが、いやいやなかなかにやんちゃもしていたのであるが・・・。笑。

最近、母が、あんた、誰に似てるん?と私のことを呆れて見ているようなので、あれこれルーツを探っていた。
その言わんとするところはお伝えしがたいのであるが、宴会部長をしたり、いろんな人と交流を持ったりしているところなんだろうけれど、自分でも考えていて、あるとき、あまり関係がなかった同級生の著書を読んでみて、「アッ、I高のせいや!」と思いついたのである。
できなければダメだったし、むしろ目立たなければならなかった。だから、とろかったら、裏口か?と言われた。
だから、多分、頑張って、一生懸命人と喋れるようになったり、人の中に入って行けるようになったのだろうと思う。
中学時代は、本当におとなしかった。
小学校時代は、おとなしいけど、意見を言わなければいけないときにはちゃんと言うから、いいと思います。といつも通知表に書かれていた。小二のときに、私の国語力を見込んでくださった先生も、「意見言わなあかんときには、重たい口を、無理やり開いて、意見言います。」と言ってくださったらしい。

内気であった頃のことを思い出して話すと、友人たちには笑われる。
でも、それなりに努力してきたのだなあ、と思うと共に、ああ、母校の影響は、大学も高校も、ああ、オソロシイ、とつくづく思うのである。

母校の話、この後につづく・・・。